胡蝶蘭農家の一日:出荷最盛期の温室で起きていること

こんにちは。
祖父の代から続く胡蝶蘭農園を営んでいる、3代目の園主です。

お店やネットで胡蝶蘭を注文すると、数日後には立派な鉢が指定の場所へ届きます。
当たり前の光景に見えますが、その裏側で農家が何をしているのかは、ほとんど知られていません。

とくに3月。
胡蝶蘭農家にとって年間最大の出荷最盛期にあたるこの時期、温室の中はちょっとした戦場になります。

この記事では、出荷最盛期の温室で実際に何が起きているのか、朝から夜までの一日を追いかけながらお見せします。
読み終わる頃には、開店祝いや就任祝いで目にするあの白い花が、少し違って見えるはずです。

胡蝶蘭農家の「出荷最盛期」はいつなのか

年間最大の山は3月中旬から4月上旬

胡蝶蘭の出荷には、はっきりとした山があります。
一番大きな山が、3月中旬から4月上旬です。

どれくらいの差があるのか、同業の大手生産者である黒臼洋蘭園さんが繁忙期の密着記事で具体的な数字を公開しています。
通常月の出荷が約15,000株のところ、3月中旬から4月初旬だけで約3万株。
つまり、ふだんの2倍の量をこの3週間ほどに詰め込むわけです。

うちは規模こそずっと小さいものの、比率でいえば似たようなものです。
この時期だけは、家族総出でも手が足りません。

なぜ3月に注文が集中するのか

理由は単純で、人が動く季節だからです。
企業の人事異動や社長交代の発表が3月に集中し、就任祝い・昇進祝いの胡蝶蘭が一斉に注文されます。

年度替わりはオフィスの移転や新店舗のオープンも多く、移転祝い・開店祝いの需要も重なります。
贈る側は「4月1日に届けてほしい」と希望されることが多いので、配送日がピンポイントで集中するのも、この時期の特徴です。

12月のお歳暮と、9月にも小さな山

3月ほどではありませんが、山はほかにもあります。

  • 12月:お歳暮・年末のご挨拶需要
  • 9月:秋の人事異動に伴う就任祝い
  • 5月:母の日のギフト需要

とくに12月は、1年お世話になった方への贈り物として胡蝶蘭を選ぶ方が増えており、温室は再びあわただしくなります。
月ごとの需要イベントについては、ビジネスフラワーの年間カレンダーが贈る側の目線でよくまとまっているので、参考になさってください。

ちなみに、こうした需要の波を全国の産地が分担して支えています。
JAグループ愛知によると、洋ラン生産は愛知県が全国1位で、シェアは約25%。
胡蝶蘭は日本のあちこちの温室で、同じ3月に向けて仕込まれているわけです。

出荷最盛期の温室の一日

では、最盛期のある一日を時間を追って見ていきます。
うちの3月下旬の、ごく標準的なスケジュールです。

時間帯主な作業
5:30〜7:00温室の見回り、温度・湿度の確認
7:00〜9:00出荷株の選抜、水やりの判断
9:00〜12:00支柱かけ(曲げ)、寄せ植え(組み)
13:00〜16:00ラッピング、立て札の取り付け
16:00〜19:00梱包、出荷便の積み込みと見送り
19:00〜翌日分の準備、注文の照合

夜明け前:温度計の確認から一日が始まる

最盛期の朝は、まだ暗いうちに温室へ入ります。
最初にやるのは、花の様子を見ることではなく、温度計と暖房機の確認です。

3月といっても朝晩は冷えます。
胡蝶蘭は寒さに弱く、温度管理をひとつ間違えれば、出荷直前の株が一晩でダメになりかねません。

祖父は「花より先に温度計を見ろ」とよく言っていました。
40年以上前の教えですが、暖房が灯油からヒートポンプに変わった今でも、やることの本質は同じです。

見回りでは、遮光カーテンの開閉タイミングも判断します。
朝の光は花色を良くしてくれる一方で、急に直射日光を入れると葉焼けを起こすからです。
空を見て、天気予報を見て、カーテンを何割開けるか決める。
この判断は、いまだにマニュアル化できていません。

午前:株の選抜と「曲げ」の作業

朝の見回りが終わると、その日に出荷する株の選抜に入ります。
花の輪数、咲き具合、葉の艶、根の状態。
何百株の中から、注文票の条件に合う株を一鉢ずつ選び出していきます。

たとえば「3本立・白・輪数30輪以上・4月1日着」という注文なら、配送日数を逆算して、届いた日に八分咲きになる株を選びます。
満開の株を送ればいいわけではない、というのが意外と知られていないところです。
花は輸送中も咲き進むので、出荷時点では少し手前の咲き具合がちょうどいいんです。

選抜と同時に、水やりの要不要も株ごとに見ていきます。
最盛期は乾き具合を確かめる時間も惜しいのですが、ここで手を抜くと配送中に花がしおれます。

選抜と並行して進めるのが、「曲げ」と呼ばれる支柱かけの作業です。
花茎に支柱を添わせ、あの弧を描くような美しいカーブに整えていきます。

これが完全な手作業で、一株ずつ茎の癖を見ながらワイヤーで留めていくしかありません。
機械化できないかと何度も考えましたが、茎の硬さも曲がり方も一株ごとに違うので、結局は人の手と目に頼ることになります。

午後:寄せ植え・ラッピング・立て札

午後は仕上げの工程です。
贈答用の胡蝶蘭は、1本ずつ育てた株を3本や5本、化粧鉢にまとめて「寄せ植え」にします。
うちではこれを「組み」と呼んでいて、花の向きと高さを揃えるセンスがいちばん問われる仕事です。

組みあがった鉢は、隙間を発泡スチロールで固定し、輸送中に花が擦れないようビニールをかけます。
そのうえでラッピングを施し、贈り主の名前が入った立て札を取り付けたら完成です。

ラッピングの色ひとつにも注文ごとの指定があります。
最盛期は立て札の名前の確認だけでも神経を使う仕事で、誤字はぜったいに許されません。
お祝いの品ですから。

以前、先代の頃に一度だけ、立て札の会社名の漢字を一文字間違えて出荷しかけたことがあったそうです。
積み込み直前に気づいて事なきを得ましたが、以来うちでは、立て札は必ず二人でダブルチェックする決まりになっています。
確認項目は次のとおりです。

  • 贈り主の会社名・肩書き・氏名の表記
  • お届け先の宛名
  • 「御祝」「祝御就任」など頭書きの種類
  • 注文票と鉢の仕立て(本数・色)の一致

夕方から夜:梱包とトラックの見送り

夕方になると、完成した鉢を段ボールに詰めてトラックへ積み込みます。
先ほどの黒臼洋蘭園さんの記事によれば、繁忙期は1日3〜4便のトラックを送り出すそうですが、どこの農園でも夕方の積み込みが一日のクライマックスであることは変わりません。

トラックが出ていくのを見送ったら、翌日の注文票と株の在庫を照合して、ようやく一日が終わります。
最盛期のあいだ、帰宅が22時を回るのは正直めずらしくありません。

出荷される一鉢に詰まっている「4年半」

最盛期の話をすると「3週間で3万株、大変ですね」と言われます。
ただ、本当にお伝えしたいのはその手前の時間です。

フラスコの中で過ごす最初の1〜2年

胡蝶蘭の栽培は、無菌状態のフラスコ(ガラス瓶)の中から始まります。
種や培養した苗をゼリー状の培地で育て、葉が見えてくるまでに1〜2年。

生産者の宮川洋蘭さんが解説しているとおり、種から出荷までは約4〜5年かかります。
つまり今日出荷した株は、4年以上前に計画して仕込んだものなんです。

花を咲かせない2〜3年

フラスコから出した苗は水苔に植え替え、そこから2〜3年は花を咲かせず、ひたすら葉と根を育てます。
「早く咲かせたほうが儲かるのでは」と思われるかもしれませんが、株の体力がないまま咲かせた花は小さく、日持ちもしません。

この我慢の期間が、贈答品としての品質を決めます。
祖父がいちばん口うるさかったのも、この株作りの数年間でした。

18度の壁:花芽分化と開花調整

十分に育った株は、涼しい環境に置くことで花芽を作ります。
目安は最低気温18度前後の環境に3週間から40日ほどで、花芽が出てから開花までさらに2〜3ヶ月かかります。

逆にいえば、この温度をコントロールできれば、開花時期を狙って合わせられるということです。
3月の最盛期に満開の株を揃えられるのは、前年の秋から逆算して温度管理を続けてきたからにほかなりません。

昔はこの調整のために、夏の間だけ株を標高の高い涼しい土地へ運ぶ「山上げ」という方法が使われていました。
今は空調技術が進んで、平地の温室でも温度をコントロールできるようになっています。
うちも祖父の代は山上げをしていましたが、父の代で空調に切り替えました。
やり方は変わっても、「涼しさで花芽のスイッチを入れる」という原理そのものは、祖父の頃から何も変わっていません。

出荷までの道のりを整理すると、こうなります。

工程期間の目安主な作業
フラスコ育苗1〜2年無菌培地で発芽・育成
株作り2〜3年水苔に植え替え、葉と根を充実させる
花芽分化3週間〜40日18度前後の低温で花芽を促す
開花・仕立て2〜3ヶ月支柱かけ、咲き具合の調整
出荷数日選抜、寄せ植え、ラッピング、配送

最盛期ならではの苦労と、続けられる理由

増産が利かない、生き物相手の商売

工業製品なら、注文が2倍になれば生産ラインを増やせます。
胡蝶蘭はそうはいきません。

4年前に仕込んだ数がその年に出荷できる上限で、今から慌てても1株も増えないからです。
3月下旬から4月上旬に胡蝶蘭が品薄になる事情は、ベイサイドフラワーの解説記事でも詳しく紹介されていますが、需要が読み切れず在庫が尽きていく感覚は、生産者としてなかなか胃の痛いものがあります。

人手の問題もあります。
曲げも組みもラッピングも、経験のいる手仕事なので、繁忙期だけアルバイトを入れてもすぐには戦力になりません。
結局、家族と長く手伝ってくれている数人で、ふだんの2倍の量をさばくことになります。
うちの場合、3月の後半は夕食を温室で立ったまま済ませる日が何日かあります。
褒められた働き方ではないと自覚しつつ、毎年この時期だけは仕方ないと割り切っています。

色物・多本立から先になくなる

最盛期に先に姿を消すのは、ピンクや黄色などの色物と、10本立のような大型の仕立てです。
色物はもともと生産数が少なく、大型の仕立ては1鉢組むのに時間がかかるため、1日に作れる数に限りがあります。

だからこの時期のご注文は、とにかく早いほうが有利です。
生産者の立場から言わせてもらえば、3月末着の胡蝶蘭は2月のうちに注文していただけると、こちらも最良の株を確保できます。

祖父の代から変わらない「見送りの挨拶」

うちには、トラックが出るときに必ず一礼して見送る習慣があります。
祖父が始めて、父が続け、私も気づけば同じことをしていました。

胡蝶蘭は、誰かの門出を祝う花です。
農林水産省の花きのページには花き産業の統計や振興策がまとまっていますが、ああいう大きな数字の向こう側には、一鉢ごとに贈り主と受け取り手の物語があります。
この仕事をしていると、それを毎日実感します。

4年半かけた株が、たった数日で誰かのお祝いの席に立つ。
その瞬間のために続けている仕事です。

まとめ

出荷最盛期の胡蝶蘭農家の一日を、温室の中からお伝えしました。

3月中旬から4月上旬は通常の2倍の株が動く年間最大の繁忙期で、朝の温度確認から夜の梱包まで、ほぼすべてが手作業です。
そして出荷される一鉢の裏には、フラスコから数えて4年半の時間が積み重なっています。

次に街で開店祝いの胡蝶蘭を見かけたら、その花が4年前から準備されていたことを、少しだけ思い出してみてください。
私たち生産者にとって、それが何よりの励みになります。